姫路・西はりま 地場産業紹介

にかわ・ゼラチン

世界の菓子の歴史

パンに果物を乗せたのが始まりだった

メソポタミア時代

紀元前2,200年頃の古代メソポタミアのマリ王朝の宮殿跡から、菓子型が出土しています。また、楔形文字で記された出土品には、マリ王朝に「メルスの製造者」という職業があり、「メルス」は練った生地にナツメヤシや蜂蜜、各種の香辛料を混ぜ込んで焼きあげたものであると書かれており、焼き菓子に近いものではないかといわれています。

エジプト時代

小麦粉を使ったパンが、古代エジプトでも発明されました。そのパンづくりの技術に、甘味を加えるものとしてデーツ(ナツメヤシ)や果実、動物の乳などが融合し、次第に菓子らしきものに発展しました。

ギリシャ時代

パンを焼く技術はギリシャに伝わり、小麦粉に卵や蜂蜜、果実や獣脂、オリーブオイル等を入れ、様々なパンや菓子が作られるようになりました。紀元前200年頃には、72種類の焼き菓子が作られていたといわれています。

ローマ時代

パンと菓子を別のものとして捉えるようになり、紀元前171年には菓子づくりが職業として認められ、次第に一般庶民の間にも広まっていきました。また、神事を重んじて多くの供え物をしていたローマ人は、菓子を飾る技術を発展させました。 当初は甘味に蜂蜜や果実を用いていましたが、インドにあった砂糖がアレキサンダー大王の東征によってローマに伝わり、菓子づくりの幅も広がりました。

中世

キリスト教が力を持ちはじめ、宗教に関する祭事用の菓子である「ガレット」などが生まれました。その後、11~13世紀の十字軍遠征によって砂糖がヨーロッパの広範囲に持ち帰られ、14世紀に入ってからは豊富に使われるようになりました。 こうしてヨーロッパに砂糖が普及するとともに、菓子の世界も少しずつ豊かになっていきました。

ルネッサンス時代

コーヒー、カカオ、スパイスなどが発見され、それとともに菓子も進化していきました。当時、次第に力を持ち始めたフランス王国(フランス)に対して、神聖ローマ帝国(イタリア、オーストリアなど)、イスパニア王国(スペイン)、ポーランド王国(ポーランド)などの各国が、政略的な婚儀を交わしていました。そういう理由から、各国・各地で作られてきた菓子も、フランスに集まるようになりました。

フランス・ブルボン王朝時代

フランス国内の混乱をアンリ4世が鎮めてブルボン王朝を開き、この時代に様々な新しい菓子を生むことになります。このブルボン王朝の時代に、現代の菓子の基が形作られたと言ってもいいでしょう。

近代~現代

フランス革命が行われる1789年まで、菓子を口にすることができるのは貴族や一部の上流階級のみでした。しかし革命後、菓子職人達は自分たちを雇ってくれる上流階級の人間がいなくなったことから、自分たちで店を開くようなりました。これ以降、元々高級品で上流階級の人々のものであった菓子が、庶民にも広がっていきました。 20世紀になって製造技術・冷蔵技術・流通技術がより発展し、菓子も多種にわたり、世間一般に広く浸透することになります。

日本の菓子の歴史

茶道とともに育まれた日本の菓子文化

紀元前・大和時代:上古時代

この頃はまだ日本に大陸文化が伝わる前で、果物も含めて日本固有の菓子が作られ始めた時代です。田道間守(たじまもり)が、常世の国(遥か海の彼方にあると想定した国)から不老不死の妙薬として「橘の実」を持ち帰り、これがもたらした果実の甘さが、菓子の起源となったとされています。

奈良時代・平安時代:唐菓子時代

遣隋使・遣唐使によって、菓子とその製法が大陸から伝わりました。唐菓子に工夫を加えることで、これまでの簡単な加工品に比べて、味・形・製法の全てにおいて優れた独自の菓子が生まれました。

鎌倉時代・南北朝時代:点心時代

砂糖が薬として高貴者に用いられ、国内でも生産が行われるようになりました。そして、茶が伝来して茶道が始まったため、茶菓子(点心、茶子)が求められるようになりました。その結果、美しい形や優れた味の菓子が作られ、現在の和菓子の源流が生まれました。

室町時代・安土桃山時代:南蛮菓子時代

ポルトガル人やスペイン人によって、カステラ、カラメル、金平糖などの砂糖や卵を用いた南蛮菓子が持ち込まれ、その原料や製法などが、我が国の菓子事情に大変革をもたらしました。南蛮菓子は、長崎を中心にして全国に広まりました。

江戸時代:京菓子・江戸菓子時代

点心が茶道と共に発達し、茶道家元が京都に多くあったこともあり、独自に発展した上流階級の菓子「京菓子」が生まれました。また、江戸が政治・経済・文化の中心になり、生活に密着した色々な菓子が作られました。 現在の和菓子の殆どがこの時代に作られたといえます。姫路銘菓である上菓子や「かりんとう」もこの時代に作られはじめ、現在の製菓業の基盤ができました。

明治時代・大正時代:洋菓子輸入時代から国内生産へ

明治維新後、ビスケットなど数々の洋菓子が輸入され、日本の菓子文化に大きな影響を与えることになりました。その後、国内でも生産されるようになり、それまでは南蛮菓子と呼ばれていた菓子も、西洋菓子・洋菓子と呼ばれるようになりました。

昭和時代:菓子大量生産時代・国際化時代

第二次世界大戦中は、菓子製造がほぼ中止状態となります。終戦後、昭和27年の砂糖や小麦の統制撤廃を機に、菓子業界は活発な動きをみせるようになりました。昭和30年代にはカカオ豆等の輸入が自由化され、製菓機械の進歩もあって、大量生産の時代を迎えました。 また、それまで外国菓子の輸入を一部制限していましたが、国際化の波を受けて、昭和46年にチョコレート等すべての菓子の輸入が自由化されました。

現代:健康志向時代

豊かになった食生活に加え、ライフスタイルの変化による健康志向の高まりや賞味期限表示制度の導入など、菓子の種類や消費態様が多様化しています。また、のど痛緩和、口臭除去、虫歯予防、ダイエットなど、機能性を重視した菓子が現れ始めました。

データでみる菓子産業

品目別・従業者規模別事業所数

  4~9人 10~19人 20~99人 100人~ 合計 割合
洋菓子

393

325

604

301

1,623

24.7%

和生菓子

839

525

648

176

2,188

33.3%

ビスケット・干菓子

321

201

330

110

962

14.6%

米菓

191

120

184

59

554

8.4%

飴菓子

87

37

51

36

211

3.2%

チョコレート

27

24

78

65

194

3.0%

その他の菓子

240

187

298

116

841

12.8%

合計

2,098

1,419

2,193

863

6,573

100%

割合

31.9%

21.6%

33.4%

13.1%

100%

 

平成29年工業統計「品目表」より

姫路菓子同業組合の企業数・従業員数

年次 企業数(社) 従業員数(人)
10年 72 2,221
11年 67 2,200
12年 65 2,101
13年 59 2,036
14年 48 1,914
15年 46 1,914
16年 44 1,867
17年 44 1,885
18年 44 1,893
年次 企業数(社) 従業員数(人)
19年 44 1,772
20年 42 1,662
23年 42 2,003
24年 42 1,757
25年 42 1,585
26年 39 1,447
27年 38 1,444
28年 38 1,561
29年 36 1,559

出典:姫路菓子組合

菓子の原材料

材料選びこそ菓子作りの基礎

赤えんどう 塩味をつけ、みつまめや豆大福、福落雁(らくがん)などに使用します。
寒梅粉 寒い地方、主に北海道で上質の小豆が産出されます。日本における栽培面積の6割以上を北海道が占めています。あんの原料として広く利用されています。
寒梅粉 もち米を蒸して餅にした後、白く焼き上げて砕いた粉で、梅が咲く寒い時期に新米を粉にしたことから名づけられたという説があり、関西地方では「寒梅粉」、関東地方では「みじん粉」と呼びます。
くず粉 葛の根を粉砕し、水による沈殿を繰り返した後、日陰で乾燥させて作ります。高級な和菓子や料理の原料として使われます。
小麦粉 小麦を挽いて作られた粉で、きめの細かいものを作るには、2~3回ふるいに掛けて使用します。和菓子に使う小麦粉は、グルテン質(粘性度)の少ない薄力粉がよく使われます。
砂糖 菓子に甘みを加える大事な役目を担っています。砂糖の中でも、上白糖は粒子が細かくしっとりとしていて水に溶けやすいので、ほとんどの和菓子に用いられています。グラニュー糖は、甘みが洗練されアクが少ないので、錦玉や飴に使用します。黒砂糖は、カルシウムやカリウムが多いため身体にも良いとされており、かりんとうなどの駄菓子に多く使われます。
白玉粉 もち米を挽いて粉にし、よく水でさらして乾燥させたものです。うるち米を加えることもあり、白玉団子などに用いられます。色が純白で艶のよいものが上質とされ、水を少しずつ加えて丁寧にこねます。
白いんげん 白あんの原料で、かのこ、ようかん、練り切りなどに使います。豆の蔓から出るひげがないために「手なし」と呼ばれ、これが転じて手亡(てぼ)豆とも呼ばれます。
上新粉 精白したうるち米を水に浸けた後、粉砕して乾燥させて作ります。米粉は新粉とも呼ばれ、粒子の粗いのが並新粉、細かいのが上新粉、特に細かいのが上用粉と呼ばれます。まんじゅう、団子、餅菓子などに使用し、和菓子の主材料となります。
道明寺粉 もち米を水に浸したものを蒸し、乾燥させてから粗く挽いたもので、大阪府藤井寺市にある道明寺で作られたことから道明寺粉と呼ばれ、関西風桜もち等に使用します。
膨張剤 重曹と酸を調合したものがベーキングパウダーで、焼きものに使用します。重曹は重炭酸ソーダの略で、分解しやすい性質からよく菓子に用いられます。膨張力は強いですが、多少の苦みとにおいが残り、菓子の色が黒くなってしまいます。イスパタは、重曹に焼きみょうばん・澱粉などを調合したもので、ベーキングパウダーと比べると、イスパタの方が生地を膨らませる力が強く、おもに蒸し菓子に使用します。
水あめ 澱粉を、酸や糖化酵素で糖化して作られた粘液状の甘味料です。古くは玄米を発芽させ、玄米中の糖化酵素を利用して製造されていました。菓子につやを出します。
わらび粉 わらびの根からとった澱粉で、自然の風味が珍重されています。本わらび粉とも言います。わらび餅でも、安価なものはわらび粉を使っていなかったり、わらび粉に山芋・こんにゃく・寒天などを混合したりしています。

甘みの秘密

太古から人類が本能的に求めた味

砂糖

菓子とは切っても切り離せないのが甘味です。人は太古から、蜂蜜や果物、木の実などの甘味を求めていました。現在では砂糖は簡単に手に入りますが、昔は高級品とされ、貴族や富裕層の間でしか手にできない貴重品であり、そのほとんどが滋養のための薬として用いられていました。甘みのもとである糖質は、疲労回復にも適していますので、薬としての効果もうなずけます。また、当初は貴重品だったということもあり、わずかにふりかけるといった用いられ方だったと考えられています。

砂糖の原料

サトウキビ

サトウキビ

サトウキビは、南太平洋の島々(ニューギニア周辺)から東南アジアを経てインドに伝わったとされています。紀元前2,000年頃にインドで砂糖が使われていたとされ、サトウキビから砂糖を作ったのはインドが最古と言われています。

テンサイ

テンサイ

テンサイは、サトウダイコンまたはビートと言われ、日本では北海道で栽培されています。ドイツの科学者がテンサイから砂糖と同じ成分を取り出すことに成功したことを知り、ナポレオンが栽培を奨励したため、ヨーロッパ全土に広がりました。

サトウカエデ

サトウカエデ

高さは30~40メートルにもなり、葉も日本のカエデと比べるとかなり大ぶりで、特徴的な形をしています。カナダの国を代表する木とされ、カナダでは国旗にこのサトウカエデの葉が使われたり、硬貨のデザインにも取り入れられたりしています。また、建材、ボーリングのレーンやピン、野球のバットなどにも使われており、樹液を煮詰めるとメープルシロップになります。

砂糖の日本伝来

日本に砂糖が持ち込まれたのは、今から約1,200年前の奈良時代に、中国の僧、鑑真によって伝えられたという説があります。当時、砂糖は貴重な薬として奈良の大仏にささげられました。

国内で砂糖の生産が始まったのは18世紀で、製糖奨励策を徳川吉宗・新井白石らが打ち出し、阿波、土佐、駿河、遠江、和泉などの地方でも製糖が始まりました。それまでの菓子は甘みの少ないものが多く、甘葛、飴、蜂蜜などで甘みをつける程度のものでしたが、これ以降、甘みの多い菓子が増えていきました。

名家老 河合寸翁

姫路藩の財政赤字を救い、菓子作りも広めた名家老

河合寸翁像

町人の力が強くなってきた江戸時代後半は、各藩とも大幅な財政赤字に苦しんでいました。姫路藩も73万両(現在の価値にして約440億円)という負債を抱え、時の藩主酒井忠道は文化5年(1,808年)、当時の家老であった河合寸翁に財政再建を命じました。

寸翁は、領民に米を無利子で貸し与えたり、低金利で生活資金を融資したりという画期的な金融政策を行いました。また、いざというときのために共有の米を保存する固寧倉(こねいそう)を設けたりもしました。
そして、姫路城下の木綿商人と共に木綿会所を作り、木綿を「玉川さらし」という姫路藩の特産品として、大坂(大阪)の商人を通さず、直接江戸で販売する方法を考案し、財政の立て直しを図りました。

また、この河合寸翁が藩主と同じく茶人であったことから、産業振興の一環として和菓子作りを奨励し、修行させるために職人を江戸、京都まで派遣しました。この時に職人達の持ち帰った技術が、姫路の菓子作りの原点となったそうです。また、姫路銘菓である「玉椿」の名付け親も寸翁です。
寸翁は、長崎の出島にも職人を派遣し、南蛮から伝わった油菓子作りの習得を命じました。技術を身につけた職人たちは姫路に戻り、油菓子の生産をはじめました。
こうして河合寸翁は、27年かけて負債を全て返し終えました。

さらに寸翁は、姫路の東に位置する仁寿山に仁寿山黌(じんじゅさんこう)という私塾を開きました。姫路藩では当時、藩校の好古堂が人材を養成していましたが、仁寿山黌では、頼山陽(らいさんよう)など著名な学者を講師に招き、領民一人一人を尊重し、国に役立つ人材の養成を目指しました。

そんな姫路の名家老河合寸翁は、姫路神社境内にある寸翁神社に祀られ、今でも姫路市民から慕われています。

姫路のかりんとう

播州駄菓子とも呼ばれる姫路のかりんとう

河合寸翁が長崎の出島まで藩士を派遣して、ヨーロッパの油菓子の製造技術の習得を命じたことが、播州駄菓子の起こりです。かりんとうや油菓子などは駄菓子の部類に入り、庶民が日常的に食べる菓子です。また、上質の白い砂糖が使われ、公家などにも珍重されていました。

かりんとうの製法

砂糖・水・イーストや食塩、重曹などと小麦粉を練り合わせて作った生地を棒状に整え、それを植物油で揚げたのち、白砂糖や黒砂糖でつくった蜜でからめて乾燥させた駄菓子です。

かりんとうの起源

かりんとうには、唐菓子を起源とする説と、南蛮菓子を起源とする説があります。
唐菓子を起源とする理由には、小麦粉・米粉の生地を油で揚げることから、唐菓子と共通する技法が用いられているということが挙げられます。また、現代の中国には、「麻花兒(マーファール)」と呼ばれるかりんとうに似た菓子があります。
一方、南蛮菓子を起源とする説は、『南蛮料理書』の菓子の部に「コスクラン」と呼ばれるかりんとうに似た菓子があり、現在でもポルトガルで製造されていることによります。

その他、戦国時代における兵士の保存食が起源、といった説もあります。

姫路のかりんとうの特徴

かりんとう

姫路のかりんとうは、硬めにこねた生地を用いるため、硬めの食感になります。元々は上流階級のお菓子として広まったものでしたが、播州駄菓子と呼ばれるようになり、庶民の味として発達しました。
ゴマ、抹茶、大豆等を生地に混ぜることもあり、現在では一般的なものから高級品まで、様々なものがあります。

油菓子全般を現在では「かりんとう」と呼ぶようになっていますが、工程の違いや形によって、「黒ねじ」「奉天」「うず巻き」「ひっかけ」「みみ」などの呼び名があります。昔は油菓子のお店が博労町に軒を連ねていましたが、戦災によって焼失してしまいました。しかし、昔から続くお店が今でも数軒残っており、代々受け継がれた製法で、伝統の味を守り続けています。

お問い合わせ窓口

連絡先団体名:姫路菓子組合
所在地:670-0932兵庫県姫路市下寺町43 姫路商工会議所新館3F
TEL:079-223-2115 FAX:079-280-3145
MAIL: kumiai@himejikashi.com
URL:http://himejikashi.com